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全般性社会不安障害と言われて

書評:「我執の病理」 北西憲二

森田療法を「我執」という観点から解説した書籍である。

我執

 我執とは、自己中心的で自分と他の人に執着する愛であり、欲望である。
 筆者は、この我執に二つの面を見いだす。一つは、我執は、それを過剰に持つ者に対して苦悩をもたらすという面である。たとえば、世界あるいは自分の気分を自分の思うがままにコントロールしたいという完全欲や、他者から常に賞賛されていたいとする承認欲は、過剰な我執の一例であるが、これを常に満たすことは極めて困難である。我々は万能でないし他者の行動を支配できないからである。そうすると、自分が不甲斐なく惨めに思えたり、激しい劣等感を覚えたりする。無気力や非典型うつの背後にあるのは、このような激しすぎる自己愛なのではないか、というのが筆者の見立てである。これは、僕自身に照らし、大いに共感するところである。
 さらに筆者は、我執にもう一つの面を見いだす。その人の自然で固有な生き方の表現という面である。森田正馬自信も我執の強い偏屈な性格の持ち主であったが、その性格は、彼の精神医学への探求心を駆り立てた。我執の中には、その人の原動力、人間として唯一無二のきらめきの原石が埋もれているのである。森田療法は、我執という「生の突出(自己愛の肥大)」を削ぐとともに、「そこに含まれる自然で固有な生きること」を育てていくというアプローチなのである。

森田療法の治療の留意点

森田療法については、これまで「森田療法」(岩井寛)「新時代の森田療法」(慈恵医大森田療法センター)を読んだが、治療の留意点、とくに症状との向き合い方については、本書が最も具体的で参考になったと感じた。印象深かったものをいくつか紹介したい。

不安を受け容れるこころの態度

不安を受け容れるこころの態度は、おおよそ次のステップを踏んでいく。第一段階は「そこに漂ってみること、直面すること」(不安に対する自分の態度を知り不安と関わる)、第二段階は「それを受け容れていくこと、さらには不安を感じたままにしておくこと」(それまでと違った態度で不安に接していく)、第三段階は、「自分のものとして受け容れていくこと」(不安を自分のものとして引き受けていく)である。

 この第二段階、第三段階を、自分は意識する必要があると感じた。症状を観てやろう、観察してやろうと待ち受けると症状が軽減したという患者の例も紹介されていた。

不安のリフレーミング

 不安を感じたら、それを次のように読み替えようというもの。これは、治療の原点である。治療は必ず行き詰まる時が来る。その時には、この原点に戻ることが大事である。

  1. 不安は欲望から読み替えられる誰にでもある現象である。(欲望から不安を見る。)
  2. 不安は、逃げようとすればするほど、取り除こうとすればするほど強まる。(不安の逆説)
  3. 不安を持ちながれでも人は多くのことができる。(発想の転換)
  4. 不安をコントロールするのでなく受け容れていくこと。(感情の受容)
  5. 人が悩むのはその人に欠点や欠損があるためでなく、過剰に生きようとするからであること。(過剰説)
  6. 問題の解決は不安を取り除くことではなく、自然で固有な生き方の探求にあること。(生きることに焦点を合わせる)

六十点主義

六十点主義とは、…四割の不足不満を抱えて生きていくことである。四割の不満を持って生きるということには、消極的な意味ばかりでなく積極的な意味もある。つまり、不満、不安、怒り、失望、恐怖など、辛い感情を内に保持し、自分なりに消化しながら生きていく能力を獲得することを意味するからである。

 この後半のくだりは、とても納得性があると感じた。

思ったこと

 生きるということは、不確実性と変化に満ちている。何が起きるか全て予想することはできないし、自分で全ての事象をコントロールできるわけもない。周りの環境は刻一刻と変わる。変化や予期できないことは、生を脅かす要因の一つであるから、それを恐れることは自然なこと。しかし、だからと言ってそれをずっと回避し続けていたら、僕の自己達成欲望は全く満たされず、逆に僕に苦悩の絶望をもたらす。人生はどんどん狭くなり、自分の持つ可能性も無駄に帰する。
 目の前の、僕が属する社会と関わり合い続けること。コントロールできないことへの不安や恐怖を抱えながら、それでもできることを着実にやること。その中で何度も失敗し、行き詰まっては原点に立ち返り自分のできること、できないことを見極め、「現実感覚」を養うこと。過剰な欲望を削ぎ、自分固有の生き方を育てること。それが大事だと感じた。