hnlog diary

全般性社会不安障害と言われて

久々に不安障害の症状が来てる

タイトル通り。

契機:上期、体調不良で15日くらい仕事を休んでしまい、それが原因で上期の評価が悪かった。
平均以下。
給料下がった。
この先、自分はどうなるのか、不安になった。


で、おりしもコロナにかかり、寝込んでしまい、寝床の中であれこれ考えて不安が膨らんだ。
仕事をうまくこなせる自信がなく、働くのが怖い。
余計に起きれなくなり、それが不安を掻き立てるという悪循環。
みぞおちのあたりがきゅっと収縮して、力がそこに吸い込まれて消失するような感覚。

        • -

こんなに休みまくって、会社をクビにならないだけマシと思え、というのはわかる。
でも、会社から「お前の貢献は並以下だ」と突き付けられて、それでも頑張ろうという意欲や、
これから挽回して働き続けることができるという展望が、見いだせないでいる。

        • -

自分は、仕事ができない、と思う。
でも、周りを見よう。
自分より優秀でもない奴が、できないなりにも、しかられながらも、淡々と働いて仕事を前に進めて、終わらせている。
それを考えると、自分は、行動できていない。
失敗することや仕事がスタックすることにより、人にみっともないところを見せることを恐れて、行動できていない。
グダグダな打ち合わせになることを恐れて、打ち合わせをなかなかセットできない。
完璧思考によって、動けなくなっている。
グダグダなりにも動くことを心がけよう。
動くこと。動くこと。動くこと。
今日は何をする?
・シャワーを浴びる。
・歯を磨く。
・病院に行く。
・マインドフルネスを15分やる。
それだけはやろう。動く。

書評「回避性愛着障害 絆が希薄な人たち」/岡田尊司

★★★★★

前半は、回避性愛着障害の解説。優れているのは後半。同障害を持つ人の陥りがちな適応戦略を見据えそれをどう克服するかを紹介しているのだが、勇気と力を与えてくれる。特に第6章、第7章は熱い。

人生に主体性を取り戻すこと。回避性愛着障害の克服とは、単なる症状の治癒のレベルに留まらず、人生をより良く生きることに繋がるのだと思った。

愛着とは

生まれてから1歳半くらいまでに間に、親が絶えず子供のそばにいて、常に子供に関心を払い世話を焼くことによって子供に生まれる、親に対する特別な結び付き。この時期に愛着が形成されないと、子供は他者と安定した愛着を育むことが困難になる。愛着とは、生物学的に、子供の生存を守るために生まれたものと考えられている。愛着があるから、赤ん坊は母にしがみつき、母も赤ん坊を片時も離さないようにして育てる。赤ん坊は母から離れると激しく鳴いて母を求める。そのようにして外敵等の危険から命が守られる。

愛着スタイルの分類

  • 安定型
  • 不安定型
    • 不安型
    • 回避型(愛着軽視型。他人との間に親密な関係を求めようとしない。親密な信頼関係やそれに伴う持続的な責任を避ける。遺伝的要素は25%程度、後は1歳半までの養育環境の影響)
    • 恐れ・回避型(回避型、不安型の両方を持つ。過剰な気遣いをして親しみを求める一方で、誰にも心を許せず信じられない)
    • 未解決型

回避性愛着障害の特徴(自分に当てはまるところ)、パートナー選びや仕事におけるヒント

自分で当てはまるところ

  • 親しい友人でも、顔を合わさなくなればすぐに親交が途絶える
  • 人に頼ったり人に助けを求められない
  • 他人といると緊張したり気づまりを感じてしまい、自己開示や感情表現が苦手
  • 自分の気持よりも相手の意図から逆算してそれに対して適切と思われる表現を選ぶ
  • 不安型(やたらと相手の顔色をうかがったり迎合する)を伴う場合がある
  • パートナーの苦しみに無関心/冷淡だったり、怒り・苛立ちを覚えたり上から憐れむ。
  • 相手を愛しているからでなく自分の基準等に合致しているから結婚したりする。そして相手から期待はずれな面を見せられると、覚めるばかりでなく嫌悪感さえ覚えたりする。
  • 愛情を求められれば求められるだけ、依存されればされるだけ、うっとおしく重荷に感じてしまう。
  • 不安型の面から、仕事を冷淡に割り切れず、人間同士の関係の次元に持って行ってしまい、苦しくなる。

パートナー選び

  • 仕事、趣味等、ある特定の領域を共有する仲間とその領域だけで付き合う(研究者同士の結婚等)⇒相手への共感や経緯が生まれ、長い期間をかけて愛着が生まれる可能性。
  • 不安型の妻が愛情を求めるような関係だと、うまく行かない場合が多い

仕事

  • 絶対的に自信を持つ領域を作り、そこで勝負する。人間関係の淡白さに文句を付けさせないほどの。
  • 逆に不幸な働き方は、勝負領域を曖昧にしたまま、会社や周囲の都合に流され、苦手な領域や雑事に流され、消耗するパターン

回避性愛着障害の乗り越え方

回避型の愛着スタイルを問題とするのでなく、それがもたらす「回避行動」の改善が第一義的な問題。それに付随して、愛着スタイルの問題をより安定的なものに変えてゆく。
回避行動を脱するということは「人生に主体性を取り戻す」ことに他ならない。人生に主体性を取り戻す。これこそが本書のキーワード。

ステップ

  • 避けている問題に向き合い、そのことについて語る
    • 「症状」について語ることに終始するのでなく、その根底に「原因」となる体験等について語る。それを繰り返すことによって、失敗と思っていたことの中にポジティブな意味を見出す。
    • 何をやってもダメだと言い訳をせず、問題から逃げることをやめる。自分が課題から逃げていることに気付き、もう逃げないと覚悟を決めること。このままでは自分の人生、将来が閉ざされてしまう、という危機感に雷のように打たれる体験が必要。現実との衝突。
    • ユングもそういう体験を経て、回復した。「こんちくしょう、失神などするものか」という決意を持って、何度失神しても勉強に向かい続け、その果てに疾病利得がもたらす失神への逃避を克服した。目先の幸不幸でなく、もっと大きな「人生」というパラダイムで俯瞰するのが良い。辛い現実に向き合うことへの不安や恐怖よりも、逃げ続けることにより人生の可能性が損なわれることへの恐怖が勝ることを自覚する瞬間が訪れた時、人は変わることが出来る。(今、自分はまさしくそのような瞬間にいるのではないか)
  • 回避を突破する
    • 回避している状況は、砦に立てこもっている状況。高い壁で守っているつもりだが、実際はそこから出られなくなっている。そこから討って出て見る。
    • エクスポージャー」。まずは一番恐れている状況を生々しく思い描いてみる。それは本当に耐えがたいことなのかを自分に問うてみる。実は死ぬほど不安ということはないのでは、と思えたら、そこから討って出る。
  • 高すぎる理想を下げる
    • 「会社に行く限りはきちんとしなければ」という理想、思い込みはかなぐり捨てる。
    • まずは自分の苦しみをいったん受け止めたうえで、回避しているという事実に向き合い、そのことを自覚する。そうすることで、戦うべき相手は症状でなく、「自分が傷ついてしまう不安から逃げようと回避していること」だと気付く。その上で、自分が一番恐れている状況を思い浮かべる。適宜、リフレーミングをする。(視点の切りかえ。)
    • 「それでも死ぬほどつらいの?」。「逃げてどうなるか」と客観的に考える。後でつけが回ってきてもっと辛くなるだけではないか?その苦しさを思い出す
  • 受け身でなく、自分から攻める
  • マインドフルネス
    • 自分の偏りを気にしない
  • 誰かを支えたり世話する体験をする
    • 愛着とは相互的なものなので、世話をすることによっても活性化する。
  • 偶然外部から訪れるチャンスを、尻ごみせずに積極的に活用してみる。
    • 回避型の人は、今の状況を変えたいが変えられないという膠着状態に陥りやすいが、外から手を引かれると、案外動けるもの。差しのべられた手に素直にすがってみる。動かず何も変わらないよりは、ずっと面白い人生が歩めるはず。

感動した一節

危険を避けようと、せっかくのチャンスを放棄し、人生の可能性を細らせていくとしてら、それで本当に危険を避けていると言えるだろうか。・・・不安や恐れを抱えて生きるということが生きるということだとしたら、不安や恐れから逃れようとしたとき、人は自分の人生からも逃げてしまうことになってしまう。

人はいずれ死ぬ。誰も逃れようのない定めである。逃げ続けたところで、最後には死が追いついてきて、あなたを呑み込む。・・・われわれに結果を選ぶことはできない。われわれに選べるのは、今この時を、いかに生きるということだけだ。チャレンジするか、しないかだけだ。逃げて生きるか、不安や恐れに立ち向かって生きるか。傷つくのを避けようとして、自分の人生からも逃げ続けることもできれば、逃げるのをやめて、傷つくのを恐れずに向かっていく生き方もできる。それを選ぶのは、あなた自身だ。

結局、人生は結果に意味があるのではない。その醍醐味はプロセスにある。チャレンジにあるのだ。それを避けていては、人生の果実を味わうことなく腐らせるようなものだ。

【今後のアクション】

  • 不安の症状とその原因について、ノートに吐き出す。
  • 不安に駆られた時は、最悪の状況をまざまざと思い描いてエクスポージャーしてみる。
    • それは本当に耐えがたいことなのかを考える。それから逃げて会社を休むことによって人生が細くなっていく恐怖よりも勝るものなのか?
  • 不安で仕方ないときは、とりあえず会社に行くだけ行って、自席で呼吸法をやって定時までやり過ごすことを目標にする。ハードルを下げる。それであれば乗り切れるはず。仕事振られても、先延ばしにしちゃう。少しくらいは仕事を進められるはずで、それは休むよりはマシ。
  • マインドフルネスを毎日やる。


書評「マインドフルネス 基礎と実践」

★★★★☆

■医学的見地からマインドフルネスの効果について記した17の論文集。面白かった。


■小難しい内容で理解は十分ではないが、要は、瞑想訓練を積むと脳が変わるそう。
 フォーカスアテンションの瞑想は、認知課題の遂行時に使う脳の部位を活性化する
 一方、安静時や心の迷走時に動いて動思考をもたらすDMNという部位の活動を
 抑制するのだそう。
 DMNによる自動思考から抑うつがもたらされる場合、抑うつを抑える効果が期待
 される。

 オープンモニタリングの瞑想は、身体的知覚を司り自律神経系の処理を行う部位を
 活性化するという。刺激に対する過剰反応を抑制する、ということか。

■マインドフルネス瞑想を行う場合の注意点は、淡々と呼吸に注意を向け続けると
 いうこと。
 「呼吸から心が離れても、そのことを決して責めたりせず、ただ淡々と呼吸へと
 注意を戻す」ことが重要。自分の心の動きや状態に対して、何の評価も判断も
 加えず、淡々と観察する。そうすると、思考や感情に対する執着が減少した状態
 で認知できるようになるのだという。

■面白かったのは、曹洞宗国際センター所長の藤田一照さんの章。仏教の視点から
 今のマインドフルネスに対して批判を加えるもの。

 要は、本来仏教ではマインドフルネスは八支正道(正見、正思、正語、正業、正命、
 正精進、正念、正定)の一環(正念)と位置づけられており、他の7要素と整合した
 ものでなくてはならないのに、今のマインドフルネスは、そのような文脈から
 全く切り離された世俗的なもの、”なんちゃって”のものとなってしまっている、と。

 仏教の正見が教えているのは、「無我」。自分もその周りの人やモノ、コトも、全て
 は一体であり全てが相互に繋がりあって生起している、というもの。
 一方で、今のマインドフルネスは、「わたし」を中心に据えてしまっており、
 「わたし」の集中力が増加し、「わたし」の創造性を高め、「わたし」のストレス
 を軽減し、「わたし」の幸福度を高めることを目指したものとなってしまっていて、
 それはおかしいではないか、と。

 そしてこう指摘する。

 そういう「測定可能な」効果や進歩を始めからアテにしてマインドフルネスを実践するなら、それはブッダの説いたマインドフルネスとは間逆なものになってしまう。なぜなら、そのようなマインドフルネスの実践は、ブッダが苦しみのそもそもの原因であると指摘した「わたしという意識(sense of self)」をますます強化することにつながる

 ちょっと共感した部分があった。マインドフルネスをやっていて、ある時期調子が
 良くなったんだけど、少し習得してきたところで、ちょっとまた抑うつが出てきた
 ことがあった。自分に対する絶望がまた噴出してきてしまったというか。
 もしかしたら上記のようなところが原因なのかもしれない、と感じた。 

3年ぶりに再開

23時半就寝、9時起床。会社休み。

お久しぶり、俺!3年ぶりに。

振り返り

■2013年度

  • 秋に2週間ほど休職。これまでの繰り返される休職歴から、産業医と人事部から復職に強い難色を示され、数ヶ月のリワーク送りにされそうになる。何とか復職は認めてもらったが、残り年休はゼロ。次に年度内に休んだら、リワーク送りにするときつく申し渡される。これは相当危機感をもった。だって、一度リワークに挑んだが、乗り切れる自信がなかったし、無給で経済的に困窮すると思われたためだ。というわけで背水の陣を敷いて勤務安定化に挑む。2月にインフルエンザ罹患などのトラブルに見舞われた(出社した。。。)が、何とか乗りきった。
  • 1月から、マインドフルネスのセッションに通い始めた。これが自分にはとても合っていて非常に良かった。森田療法は自分には合っていなかったと確信した。そのあたりは別途まとめて書きたい。
  • 12月、1年ちょい付き合った彼女と別れた。性格がきつくてちょっと一生添い遂げるのは難しいと感じたため。ノーメイクで下着も手抜きして、何だか幻滅してしまったというのもある。で、ネットの婚活サイトで出会った超絶美女に猛アタックして付き合って、1週間で振られるの巻。


■2014年度
ターニングポイントとなった一年だったと思う。自分の将来に夢と希望が持てるようになった、という意味において。きっかけは色々とあった。

  • 一年間、大学院の単科に通ったこと。「失敗しても、間違ったことを言っても良い」ということを知った。自分の今の仕事の位置付けを俯瞰できるようになった。
  • 仕事で、プロジェクトチームに入り、チームで協力して仕事をしたこと。休職を繰り返し半ば腫れもの扱いされていた自分にとって、会社に居場所ができた。これが大きかった。
  • 今の彼女と出会ったこと。知的で優しくて痛みを知っている人。家庭を持つことが現実的に思えるようになった。彼女のこともいずれまとめて書きたい。
  • 結果として、数年ぶりに休職なしで一年を乗り切った。

■2015年度

  • 仕事で大きな成果が立て続けに出た。たまたまだし、僕一人の力によるものではないけれど、嬉しかった。残業はほぼフルフルでやってた。残業代収入で年収が100万増えた。
  • 休職はしなかったが、午前中起きれないことが多く、勤務時間シフトで何とかしのいだ。
  • マインドフルネスはセッションが終わり、坐禅を始めるが、通いきれず途絶。欲求に押し流されることが増えた。
現状

残業にも堪えられるようになったし、自信もついたし、周りとも卑屈になることなく接することができるようになったし、頼りにされるようになった。そのあたりの変化は隔世の感。
しかし、昨日今日と休んでいる。昨日は、しばらく疲れていたことを受けての計画休だったのだが、疲れは昨日1日では解消できず、今日もズルズルと休み。「休みたい」という欲求に流されて、価値実現的な行動を選択できないでいる。これはいかん、立て直さなくては。

ということで、このブログでログを取ることにした。やりたいことは以下。

  • 勤怠のログをつける。
  • マインドフルネスのログをつける。
  • 自分がコントロールできる事象において取った、自分の価値を実現させるための行動を記録する。

簡単にでも、できるだけ毎日更新したい。

休職延長中

この一週間、抑うつはない。
しかし、無意欲で一日中眠り、ネットを覗き、マスターベーションをして、酒を飲んで寝る毎日を過ごしていた。部屋は散らかり放題、キッチンも汚れた食器がたらいにつかったまま。

このままではいけないと思いながらもやるべきことが見当たらず。
いや、それは言い訳。
朝7時半に起きて顔を洗い、図書館へ行くことが今僕のすべきこと。
しかし、「図書館へ行って何をするのだ、TOEICは会社の人に会うので受けたくない、知財の勉強はやりたくない。さあ?」と考えて、行きたくなくなる。そんな毎日。

今日もその流れで15時くらいまで眠っていたが、心機一転起き上がり、服を着替えて外に出た。
昼食をしっかり取り、スタバでノートにあれこれ考えを書き込む。本を読む。そうしたら、「今できることを、投げ出さずにやろう」という気になった。

すぐ家に帰り、ジャージに着替えてジョギングをした。
一週間寝た切り生活だったので、のんびりと。
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外は気付けば日が長くなっていた。
暖かく、春がすぐそばまで来ていた。公園には早咲きの桜がピンクの花を開いていた。
意欲と喜びが湧きあがってきた。

走った時間はせいぜい30分弱。
たったそれだけの時間をちょっと割いてみるだけで、気分は大きく変わる。

家に帰ってから、その勢いで、部屋の片付け、掃除機かけ、洗濯二回し、食器洗い、ごみ捨てをやった。スッキリした!

億劫な作業は、本気で取りかかればその億劫さはとても小さくなる。
とにかく着手することだ。
六時間の睡眠さえ確保できていれば、活動するうちに眠気は消失する。そして前進できている自分がいる。
このことをじっくり味わおう。

書評:「我執の病理」 北西憲二

森田療法を「我執」という観点から解説した書籍である。

我執

 我執とは、自己中心的で自分と他の人に執着する愛であり、欲望である。
 筆者は、この我執に二つの面を見いだす。一つは、我執は、それを過剰に持つ者に対して苦悩をもたらすという面である。たとえば、世界あるいは自分の気分を自分の思うがままにコントロールしたいという完全欲や、他者から常に賞賛されていたいとする承認欲は、過剰な我執の一例であるが、これを常に満たすことは極めて困難である。我々は万能でないし他者の行動を支配できないからである。そうすると、自分が不甲斐なく惨めに思えたり、激しい劣等感を覚えたりする。無気力や非典型うつの背後にあるのは、このような激しすぎる自己愛なのではないか、というのが筆者の見立てである。これは、僕自身に照らし、大いに共感するところである。
 さらに筆者は、我執にもう一つの面を見いだす。その人の自然で固有な生き方の表現という面である。森田正馬自信も我執の強い偏屈な性格の持ち主であったが、その性格は、彼の精神医学への探求心を駆り立てた。我執の中には、その人の原動力、人間として唯一無二のきらめきの原石が埋もれているのである。森田療法は、我執という「生の突出(自己愛の肥大)」を削ぐとともに、「そこに含まれる自然で固有な生きること」を育てていくというアプローチなのである。

森田療法の治療の留意点

森田療法については、これまで「森田療法」(岩井寛)「新時代の森田療法」(慈恵医大森田療法センター)を読んだが、治療の留意点、とくに症状との向き合い方については、本書が最も具体的で参考になったと感じた。印象深かったものをいくつか紹介したい。

不安を受け容れるこころの態度

不安を受け容れるこころの態度は、おおよそ次のステップを踏んでいく。第一段階は「そこに漂ってみること、直面すること」(不安に対する自分の態度を知り不安と関わる)、第二段階は「それを受け容れていくこと、さらには不安を感じたままにしておくこと」(それまでと違った態度で不安に接していく)、第三段階は、「自分のものとして受け容れていくこと」(不安を自分のものとして引き受けていく)である。

 この第二段階、第三段階を、自分は意識する必要があると感じた。症状を観てやろう、観察してやろうと待ち受けると症状が軽減したという患者の例も紹介されていた。

不安のリフレーミング

 不安を感じたら、それを次のように読み替えようというもの。これは、治療の原点である。治療は必ず行き詰まる時が来る。その時には、この原点に戻ることが大事である。

  1. 不安は欲望から読み替えられる誰にでもある現象である。(欲望から不安を見る。)
  2. 不安は、逃げようとすればするほど、取り除こうとすればするほど強まる。(不安の逆説)
  3. 不安を持ちながれでも人は多くのことができる。(発想の転換)
  4. 不安をコントロールするのでなく受け容れていくこと。(感情の受容)
  5. 人が悩むのはその人に欠点や欠損があるためでなく、過剰に生きようとするからであること。(過剰説)
  6. 問題の解決は不安を取り除くことではなく、自然で固有な生き方の探求にあること。(生きることに焦点を合わせる)

六十点主義

六十点主義とは、…四割の不足不満を抱えて生きていくことである。四割の不満を持って生きるということには、消極的な意味ばかりでなく積極的な意味もある。つまり、不満、不安、怒り、失望、恐怖など、辛い感情を内に保持し、自分なりに消化しながら生きていく能力を獲得することを意味するからである。

 この後半のくだりは、とても納得性があると感じた。

思ったこと

 生きるということは、不確実性と変化に満ちている。何が起きるか全て予想することはできないし、自分で全ての事象をコントロールできるわけもない。周りの環境は刻一刻と変わる。変化や予期できないことは、生を脅かす要因の一つであるから、それを恐れることは自然なこと。しかし、だからと言ってそれをずっと回避し続けていたら、僕の自己達成欲望は全く満たされず、逆に僕に苦悩の絶望をもたらす。人生はどんどん狭くなり、自分の持つ可能性も無駄に帰する。
 目の前の、僕が属する社会と関わり合い続けること。コントロールできないことへの不安や恐怖を抱えながら、それでもできることを着実にやること。その中で何度も失敗し、行き詰まっては原点に立ち返り自分のできること、できないことを見極め、「現実感覚」を養うこと。過剰な欲望を削ぎ、自分固有の生き方を育てること。それが大事だと感じた。

ブログ開設のご挨拶

会社員です。

適応障害です。

森田療法で人生の行き詰まりを何とか打開したいと思っています。

本ブログのスタンスはちょっとまだ決まっていません。何かを書くツールとしては、ツイッターと紙の日記帳で運用しており、その使い分け方は、これから追々考えます。その時々の感情のスケッチはツイッター、まとまった考えを書きたいときは紙日記帳かこのブログに、といった感じになろうかと思います。

よろしくお願いいたします。